知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会

当会は、特攻隊の偉業を顕彰し鳥濱トメの想いを引き継いで、正しい歴史認識を広めるための活動をしています。

〒154-0001 東京都世田谷区池尻2-37-2-202

お問合せはこちら 03-5431-1752

ニュース

ホタルとなって帰って来た宮川三郎少尉のご命日

6月6日は、ホタルとなって帰って来たことで有名な 新潟県出身 第104振武隊 宮川三郎少尉(軍曹から昇任)のご命日です。

宮川少尉は、知覧に近い「万世飛行場」から一度は特攻出撃したものの機体の調子が悪く帰還した経緯があり、生き残ったことを汚名と感じていました。

宮川少尉は、知覧に来てから富屋食堂で奇遇にも同郷の親友である松崎少尉に出会います。その出撃を見送ることになり、特攻の決意を益々強くした宮川少尉にもついに再出撃の命が下ります。出撃前夜は宮川少尉の20歳の誕生日でした。富屋食堂を訪れた宮川少尉に鳥濱トメは心づくしの手料理を振る舞って出撃のはなむけとしました。宮川少尉はトメに「おばちゃん、俺、心残りのことはなんにもないけど、死んだらまた、おばちゃんのところへ帰ってきたい。そうだ、ホタルだ、俺、このホタルになって帰ってくるよ。俺が帰ってきたら、みんなで<同期の桜>を歌ってくれよ。」と言い残して富屋食堂を後にしました。

翌日、万世飛行場からの出撃で共に生き残っていた同僚の滝本伍長と出撃します。視界不良のため滝本伍長が引き返そうと合図を送るなか、宮川少尉は「お前だけ帰れ」と言ってそのまま飛んで行ったそうです。

その夜、宮川少尉が告げた時間通りに富屋食堂に一匹の大きな蛍が入ってきました。トメの娘たちが「お母さーん、宮川さんよ、宮川さんが帰ってきたわよ!」叫び声をあげ、気がつくと店にいた兵隊たち、滝本伍長、そしてトメと娘たちは「同期の桜」を歌い始めていました。

鳥濱トメが89歳で大往生された通夜の夜、富屋食堂で横たわっているトメの部屋を1匹のホタルがスーッと横切ったそうです。4月下旬の季節外れのホタルは宮川少尉がトメを迎えに来られたのかも知れません。

ホタルとなって帰って来た実話に人の魂が悠久の中で生き続けているように思えます。少なくともこの実話を語り継いでいくことで悠久の時を超えていくことができます。より良い世界を紡ぐためにも語り継いで行きましょう。

なお、滝本伍長は、戦後復員して宮川少尉の実家を訪ねてありし日の姿をお伝えし、3年後に自らの命を絶たれたそうです。生き残られた方々もその後大変なご苦労をされて現在の日本があることを忘れてはなりません。

ホタルとなって帰って来た際の詳細は赤羽顧問の記事をご覧下さい。

https://x.com/tiran_tokkotai/status/1902101560156680603

http://<iframe src=”https://www.facebook.com/plugins/post.php?href=https%3A%2F%2Fwww.facebook.com%2Fjun.akabane.14%2Fposts%2Fpfbid02TduugMBcCUkLXBMv4mtdMA8gdg8ToCZyFRejH8czsPZMWK7XQ4xDFgkmrYM5YpYjl&show_text=true&width=500″ width=”500″ height=”767″ style=”border:none;overflow:hidden” scrolling=”no” frameborder=”0″ allowfullscreen=”true” allow=”autoplay; clipboard-write; encrypted-media; picture-in-picture; web-share”></iframe>

 

枝 幹二大尉ご命日

6月6日は、富山県出身 第165振武隊 枝 幹二大尉(少尉から昇任)のご命日です。

枝幹二大尉は、家族ただ1人の男の子で姉妹が7人いました。枝幹二大尉は、陸軍大佐であるお父様から経理部幹部候補生になることを勧めたらしいですが親にそむいてまで航空兵を志願しました。特攻隊として死んでいくと知っての志願です。
枝幹二大尉が姉妹宛てに送った遺書には「姉妹の皆さん いよいよ本当にお別れ。 今でも例のごとくギャァギャァ皆とさわいでいます。哲学的な死生観も今の小生には書物の内容でしかありません。国のため死ぬ喜びを痛切に感じています。在世中お世話になった方々を一人一人思い出します。時間がありません。ただ心から有難うございました。笑ってこれから床に入ります。オヤスミ」
そして作戦命令を待っている時の気持ちを次のように書き残してあります。
「あんまり緑が美しい。今日これから死にいくことすら忘れてしまいそうだ・・・・・」
死を目前にして自然の美しさを謡うことのできる心情に畏敬の念が沸き上がります。この美しい日本を人々を守ることは今を生きる我々に託されています。

詳細は赤羽顧問の記事をご参照下さい。

http://<iframe src=”https://www.facebook.com/plugins/post.php?href=https%3A%2F%2Fwww.facebook.com%2Fjun.akabane.14%2Fposts%2Fpfbid0uuwWkZmbBuCraGbr89Ypytpkhb2CjwrmrqNkuMFto75wRCSPrNSijEp9qHRzhjM6l&show_text=true&width=500″ width=”500″ height=”722″ style=”border:none;overflow:hidden” scrolling=”no” frameborder=”0″ allowfullscreen=”true” allow=”autoplay; clipboard-write; encrypted-media; picture-in-picture; web-share”></iframe>

 

中島豊蔵少尉ご命日

6月3日は、愛知県豊橋市出身 第48振武隊 中島豊蔵少尉(軍曹から少尉に昇任) のご命日です。

中島少尉は、航空総攻撃に加わるために知覧に再来し、富屋食堂の前を通りかかった時にトメを見かけ、懐かしさのあまり走行中のトラックから飛び降りて左腕にケガを負ってしまいました。そのケガで軍の風呂に入れず梅雨時で汗臭かったため、トメは富屋食堂の風呂を沸かして入れてあげたそうです。トメが中島少尉の背中を流しながら交わした会話には涙があふれてしまいます。結局、不自由な左腕を自転車のチューブで無理やり操縦桿に縛りつけて出撃し散華されました。20歳でした。

交わされた会話等は赤羽顧問のsnsをご覧下さい。

https://x.com/tiran_tokkotai/status/1903144556583129221

藤井一少佐ご命日

5月28日は第45振武隊隊長 茨城県出身 29歳 藤井一少佐(中尉から昇任)のご命日です。

奥様が2人の小さな女の子を連れて入水自殺されたことでご存知の方も多いと思います。鳥濱トメは、年長の物静かな人という印象を抱いていましたが、戦後にこの事情を知って泣き崩れたそうです。

藤井少佐は、熊谷陸軍飛行学校において中隊長として少年飛行兵の教育を行なっていました。特攻作戦が開始され教え子が次々と散華する中で、自身も繰り返し特攻を志願したものの、歩兵科機関銃隊所属時に支那戦線で迫撃砲の破片を左手に負ったためパイロットにはなっておらず、年齢が30歳に近く妻子がある将校は特攻の対象とは成りえず、「自分の立場で責務を果たせ」という軍の判断でした。

奥様は、軍に却下されてもなお特攻を志願し続ける夫を2人の幼子の母として説得しましたが、その決意が固いことを知り悲壮な決断をしました。

1944年12月15日の朝、晴れ着を着せた次女(1歳)をおんぶし、長女(3歳)の手と自分の手をひもで結んだ3人の痛ましい遺体が近くを流れる荒川で発見されました。知らせを受けた藤井少佐は、真冬の凍てつくような強風の中でうめき声をあげ、涙を隠すように三人の前にうずくまって優しく肌についていた砂を手で払いました。遺書には「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」と書かれていました。

藤井少佐は、亡くなった娘達に決して読まれることのない手紙を書きました。「冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。それまで泣かずに待っていてください。千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。ではしばらく左様なら。父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴」

藤井少佐は、血書嘆願による特攻志願を行い、今度は軍に受理されました。藤井少佐は、第45振武隊の隊長として二式双発襲撃機に乗り込み、1945年5月28日に知覧飛行場から出撃して散華されました。悠久の時の中で奥様と寄り添い2人の娘さんを抱かれていることでしょう。

特攻隊員だけでなく家族もまた尊い決断をされて現在の日本があります。その思いをくみとって親族を大切にし他人をいたわり自分の生を全うしましょう。先人が望んだ世界に誇れる日本となりますように。

(なお、この事実は映画化されています。)

 

 

 

子犬を抱いた「ほがらか隊(荒木幸雄少尉ほか4名)」ご命日

仔犬を抱いた写真で多くの方に知られている少年飛行兵達は「第72振武隊」隊員です。写真前列左より、早川勉伍長(18歳)、荒木幸雄伍長(17歳)、千田孝正伍長(18歳)、後列左から、高橋要伍長(18歳)、高橋峯好伍長(17歳)で、5月27日に散華され全員少尉へ昇任されました。

特攻最年少の17歳2名を含む5人組は、自分達の事を「ほがらか隊」と呼んでいました。実際に底抜けに明るい彼らを目にした現地の人達は皆驚いたそうです。しかし、出撃を前にした第72振武隊の宴席で、ある者は郷里の家族への思いの述べ、ある者は泣いたそうです。

この写真は、新聞に「某基地にて」と掲載されたため、戦後もしばらく第72振武隊は知覧から出撃したと伝えられてきましたが、戦後しばらくして5月26日に万世飛行場からの出撃を待っている時の写真だということが判明しました。万世基地整備隊の隊長が生後1ケ月くらいの子犬を拾ってきて餌を与えていたところ、犬好きの荒木伍長が抱き上げた際に報道カメラマンが撮影したものです。

彼らは出撃の前日、南薩鉄道加世田駅近くの「飛龍荘」に宿泊していました。飛龍荘は大きな割烹旅館で2階に第66戦隊隊員、一階が特攻隊員の宿泊用とされていました。そして飛龍荘にも、鳥濱トメのように隊員たちに心から尽くしていた女主人、山下ソヨさんがいました。鳥濱トメや山下ソヨさんのように、親身になって隊員たちの面倒をみた方は全国各地にあった基地周辺に居たと思われます。

結局、出撃は翌27日となりますが、彼らにとってこの写真は出撃予定の約2時間前の出来事でした。これから死地に向かう17,18歳の若者が子犬の小さな命をいたわって浮かべる純真な笑顔に多くの方々が心を打たれると思います。

日本のために若い命を捧げざるを得なかった方々のためにも、現代の若者は溌溂と自分の人生を満喫して貰いたいと思います。そうできる世界となりますように。

 

松崎義勝少尉ご命日

本日5月20日は、第50振武隊 新潟県出身 松崎義勝少尉のご命日です。

松崎少尉(伍長から昇任)は、ホタルとなって富屋食堂に帰って来られた宮川少尉(軍曹から昇任)の同級生です。新潟県小千谷の高等小学校で級長・副級長の座を争い切磋琢磨した親友でした。松崎少尉は陸軍少年飛行兵第13期生としての道を選び、宮川少尉は先を越されたと悔しがったそうです。卒業後別々に道を歩み始めた二人でしたが、その後、宮川少尉も飛行兵としての道を歩み始めました。

そうして、奇遇にも知覧の富屋食堂にて再会を果たし肩を抱き合って喜びを分かちました。 しかしながら、二人は再開の喜びもつかの間であることをお互いに分かっておられました。 松崎少尉は、昭和20年5月20日出撃し散華されました。宮川少尉は親友の出撃を見送り、そのことを手紙に書いて故郷の家族に送ったそうです。宮川少尉は「また松崎に先を越された 必ず後に続く」とより決意を固くされ、6月6日に出撃し悪天候で同僚が引き返す中にあっても特攻を敢行し散華されました。

松崎少尉が最期に家族に宛てた手紙をご紹介します。

前略

いよいよ来ました。母上やりますよ。見てゝ下さい。

此の便の着く頃はもう敵空母と運命を共にし、木っ葉みじんに成ってることでしょう。

それから山口県防府市三田尻鞠生町吉野三夫様在府中一方ならず御世話に成りました故よろしくお願い致します。

今更言いのこすこともありません。くれぐれもお身体大切に。

それでは永遠にさようなら。

草々

松崎少尉は、悠久の時の中で親友宮川少尉と語り合っておられることでしょう。松崎少尉のご命日にお手を合わせて頂ければ幸甚です。

近間満男大尉ご命日

本日5月18日は、鹿児島県出身、第53振武隊の近間満男大尉のご命日です。近間大尉はさわやかな性格で誰とでもすぐ親しくなれたそうです。昭和19年春に陸士60期生の同期生会結成の日に後輩を激励を激励するため陸軍予科士官学校を訪れた際に「私は泣くまいと思った。差し迫った死は大君へのご奉公、男子の本懐、よし やるまでだ と。しかし今ここの芝生で過去を思いかっての希望と憧憬があまりにもはかなく消え去りついえて行くではないか。私は限りない思いに一人でさめざめと泣いた。泣くことは弱いことか、、、いや私は涙の底にかえって強い生命を感ずる。私はまだ恋をしたことはない。しかしそれに似た淡い思いはしょっちゅう胸に抱いている。それは人間の真実に発する限りない美しさに対してであろうか。今短かりし一生を終わろうとして、私の胸を波立たせるのは、ただこれだけのことである。私がいろんなことを思い出して泣いたとしても、もうそれでいいんだ。」と心の内を語られています。隠さないお言葉は今を生きる人々の心にも素直に沁み込み涙を誘う事と思います。皆様にもお手を合わせて頂ければ幸甚です。詳細は下記リンクから当会 赤羽顧問の記事をご覧下さい。

https://x.com/tiran_tokkotai/status/1911383059540107644

第71回知覧特攻基地戦没者慰霊祭

令和7年5月3日、知覧特攻平和観音堂前にて第71回知覧特攻基地戦没者慰霊祭が挙行され、大東亜戦争末期の沖縄戦に知覧飛行場から出撃した439人を含む旧陸軍特攻隊の戦死者1036人のご冥福をお祈りしました。知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会としては、柿﨑理事長、赤羽顧問、舞台「帰って来た蛍」出演俳優、事務局等が参加し、トメさんのお墓参りをして改めて感謝を申し上げて志を引き継いで参りますことをお誓いした後、慰霊祭に参列しました。慰霊祭には北海道から沖縄まで全国各地から特攻隊員ご遺族221名を含む約700名の方々が参列されました。また、戦後80周年という節目であり多くのマスコミの取材がありました。特攻隊員ご遺族代表として、最年長の特攻隊員でした伍井芳夫大尉(中佐に特別昇任)のご息女である臼田智子さん(81歳)が埼玉県から来られて「慰霊のことば」を述べられました。伍井大尉は第23振武隊の特攻隊長として1945年4月1日に慶良間列島南において散華されました。享年32歳でした。遺言には「人生の総決算 何も謂うこと無し」と書かれておられますが、幼い2人の娘さんと生まれたばかりの息子さんがおられ、ご子息達への遺書には父親として子の将来を案じ諭す優しさが綴られています。その息子さんは伍井大尉の散華された3か月後に病没されたそうで、残されたご遺族は女性だけで大変な思いをされて生き抜いてきたとおっしゃられていました。伍井大尉は奥様に特攻に行くことを最後まで話さなかったそうですが、埼玉県の熊谷飛行学校桶川分教場の教官を務めたことがあり「教官として教え子だけを特攻に出すわけにはいかない。若い人だけにこの任務を背をわせるわけにはいかない。」そういう責任感から特攻に志願したのでしょうと臼田さんは話されていました。愛おしい家族をおいて日本の将来を信じて散華された特攻隊員の思いを受け継いで日本を立派な国にしていけるのは現在を生きている我々です。志をもって生を全うし日本の未来を紡いで行きましょう。

    

『万世特攻慰霊碑第54回慰霊祭』供花

令和7年4月13日に万世特攻慰霊碑第54回慰霊祭が執り行われ、知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会からも供花を捧げました。その写真が届きましたのでご紹介します。

万世飛行場は、吹上浜に昭和18年夏から19年末にかけて建設された陸軍最後の特攻基地であり、終戦間近のわずか4ヶ月しか使われなかったため『幻の特攻基地』と言われています。その飛行場跡地に万世特攻平和祈念館が建てられ、館内には吹上浜沖から引き揚げられた「零式水上偵察機」や死を間近に控えた隊員たちが肉親・愛する人達へ宛てた最期のメッセージ、“至純の心”を綴った「血書」、遺品、遺影などが多数展示されています。

敷地内に建碑された万世特攻慰霊碑「よろずよに」の前にて毎年4月の第2日曜日に慰霊祭が執り行われており、当会からも毎年供花を捧げております。

この万世特攻基地から17歳少年飛行兵を含め201名の特攻隊員が祖国を護るために沖縄に出撃していきました。特に第72振武隊の子犬を抱いた写真が有名となっていますが、子犬を抱いている荒木少尉と右上の目線を逸らして写っている高橋少尉は最年少の17歳でした。写真は出撃予定のわずか2時間前に撮影されたと伝わっています。

当時は万世基地の近くに飛龍荘という隊員向けの宿舎があり、親身に隊員の面倒を見られた山下夫妻がおられました。宿泊した隊員たちは遺書や親族等に宛てた手紙を託すなど、山下夫妻と親しく交流を重ねた記録がありますので鳥濱トメと特攻隊員のような関係があったものと思われます。飛龍荘は諸事情により戦後20年以上経って売却され、平成6年に老朽化が進んだため、元隊員たち等の惜しむ声も多かったのですが解体されました。

今回の慰霊祭には約320名のご参列を頂いたそうです。皆様も機会がございましたら慰霊に訪れて頂ければ有難く存じます。

  

 

鳥濱トメ御命日

本日4月22日は鳥濱トメの御命日となります。

鳥濱トメは、昭和4年から鹿児島県川辺郡知覧町(現:南九州市知覧町)で「富屋食堂」を営んでおり、トメが40歳の時、大東亜戦争開戦翌年の昭和17年に陸軍指定食堂となりました。

知覧飛行場からの特攻が始まったのは、その3年後であり、知覧で学び各地の航空基地へ赴任していた懐かしい顔が続々と知覧へ帰って来ました。トメは明日の無い彼らのために出来る限りのことをしてあげようと、自分達が住んでいた食堂の2階を彼らがゆっくりくつろげる場所として提供しました。また、お金をもらう以上にもてなし、自分の着物や家財道具を売ってまで食材を調達して彼らをねぎらいました。

ある時、規定営業時間以降も特攻隊員をもてなしていたことを憲兵に見つかり規律違反として連行されました。トメが「あの子たちは2、3日したら体当たりするのだから、それくらいしてもいいじゃありませんか!」と答えたことから憲兵に殴る蹴るの体罰を加えられ、顔が腫れ上がってしまいました。トメは自分の命を張ってまで深い愛情で彼らを包み込み、「お母さん」と慕われるようになりました。

沖縄へ比較的近かったこともあり、知覧基地から出撃した特攻隊員は439名にのぼりました。戦争中は「軍神」などと崇められた特攻隊でしたが、敗戦後は、少なくはない国民から手のひらを返されたように非難されました。

トメは、世間が何と言おうとも信念を曲げることなく、戦後すぐに飛行場跡地に棒杭を立てて墓標代わりとし、毎日欠かさず参拝を続けていました。「特攻隊のあの子たちの為に観音堂を建てなくてはならない。お国のために散らしたあの子らの命は、お国が弔わなければならないんだよ。」と言い続け、観音堂建立のために奔走しました。 その願いが叶い、飛行場跡地に観音堂が建立されたのは敗戦から10年後の昭和30年秋のことでした。

最初の慰霊祭が開催された後も観音堂へ参拝に来る人は少なく、トメは近所の子供達を観音堂へ連れて行き、掃除をさせてから手を合わせ、特攻隊員のことを語りながら果物やおやつなどを食べさせました。観音堂に参拝することが「当たり前」になっていくように長い時間をかけて尽くしたのです。それが「特攻隊慰霊顕彰の町 知覧」の礎となり、現在へと続いています。

そうして、鳥濱トメは、平成4年4月22日、彼らの待つ天国へと旅立って行きました。特攻隊員たちから「俺の残りの人生あげるから長生きしてな」と半生を託され、89歳10か月の大往生でした。

「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」は毎年5月3日に観音堂前で催行されており、昨年は約700名の参列がありました。昨年8月にパリオリンピックの卓球日本代表 早田ひなた選手が帰国後にやりたいことについて「鹿児島の特攻資料館に行って生きていること卓球ができることが当たり前ではないということを感じたい」と話してくれたことから全国的に意識が高まり、今年は参列者の増加が予想されます。当会も例年通り参列し、鳥濱トメが遺した特攻隊員への慰霊顕彰の気持ちを受け継ぎ、その志を一人でも多くの方に伝えていきたいと思います。

鳥濱トメの御命日に際し、皆様にもお手を合わせていただけましたら幸甚です。