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10月16日は鳥濱トメの次女、赤羽(旧姓鳥濱)礼子の御命日となります。
礼子は先の大戦末期、知覧高等女学校の女学生でありながら、知覧で特攻隊員の身の回りのお世話をされた「なでしこ隊」のお一人でした。
モノクロの写真は、なでしこ隊の皆さんが昭和20年4月12日に知覧飛行場から特攻隊として出撃する穴澤利夫大尉(特攻戦死後二階級特進)を見送る様子を撮影したもので、1965年発行の「毎日グラフ」別冊に掲載されました。
戦後20有余年経って、礼子が東京に開店した「薩摩おごじょ 新宿店」は、特攻出撃から生還された方々や戦友、ご遺族らの集う場所として大変賑わいました。生前、礼子は「薩摩おごじょ」を営む傍ら、週末ごとに知覧に帰り特攻隊員の出撃を見送った戦争中の語り部をするというハードな生活を長年していました。
礼子が亡くなってからは、ご子息の赤羽潤氏が二代目としてお店を受け継ぎ、奥様と共に切り盛りされています。また、礼子と同じように慰霊活動や語り部として講演会を実施するなど全国を飛び回り、精力的に活躍しています。
親子三代にわたり受け継がれる感動の物語は、カートエンターテイメント制作映画「さつまおごじょ」(オムニバス長編映画『大河巡る~生まれ変わっても忘れない~』に収録)で観ることができます。
礼子は講演会で「もし皆さんにつらいことがあっても、特攻隊として散って往かれたあの方たちに比べれば、それほどつらいということは無いと思います。私たちには”明日”が来るのですから。ですから皆さんもつらいことがありましたら、飛んで行かれたあの方たちのことを思い出して頑張っていただきたい。そして、知覧にもぜひ足を運んでほしいと願っています」と話していました。
私たちはこの言葉を大切にしてまいりたいと思います。
鳥濱拳大 顧問が富山テレビの取材を受け、7月末にBBTドキュメンタリーシリーズ「戦後80年 知覧からのメッセージ」にて放映されました。ホタル館 富屋食堂の武田勝彦 特任館長が小学生にお話をされている場面もあり、リンク先のYouTubeで見ることが出来ます。皆様にも戦後80年にあたり思いを巡らせて頂ければと存じます。
https://youtu.be/iJTxUL_ORNY?si=QQDwuJQasp-8wAgp
靖國神社におきまして、7月13日~16日までの間、みたままつりが開催されています。この行事は、日本古来の信仰にちなんで昭和22年に始まり、境内に多くの献灯(みあかし)を掲げて戦没者のみたまを慰める夏祭りです。今年も知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会から灯明を奉納し、会員皆様からの御英霊への感謝の気持ちを表させて頂きました。顕彰会理事長、顧問、共催しております舞台「帰って来た蛍」に出演された俳優の皆様も献灯されています。また、同舞台の柿崎ゆうじ監督、鳥濱トメ役の伊藤つかささん、次女礼子役を演じられた竹島由夏さんは揮毫もされて懸雪洞として飾られております。今年も境内には若い人から外国の方まで多くの人々が慰霊に来られていました。夜空に浮かぶ献灯と懸雪洞の灯に照らされた境内と来場者の笑顔に、御英霊のお蔭で今の平和な日本があることを身に染みて感じるみたままつりです。
本日、7月5日は鳥濱トメの孫である鳥濱明久の御命日となります。
明久は幼少の頃より31年間トメと共に暮らし、特攻隊の語り部を聴き続けて育ちました。足腰の悪くなったトメの晩年も観音堂への参拝に毎日付き添うなど献身的に尽くされました。その後、語り部を引き継がれながら、ホタル館富屋食堂館長、知覧茶屋の店主として勤めてこられ、平成25年の当会設立に尽力されて顧問に就任されました。
明久は、トメから直接受け継いだ特攻隊の史実、遺志を30年間にわたり日本全国の小中学生、青年会議所、企業など80万人以上に語り続けてこられましたが、62歳という若さで鬼籍に入られました。現在はご子息である鳥濱拳大(けんた)が後を継がれてホタル館富屋食堂館長、知覧茶屋の店主となり、当会顧問に就任され語り部を引き継がれています。
我々は鳥濱トメの想いを後世に繋いだ鳥濱明久の功績を讃え、その想いを大切に受け継いで参りたいと存じます。
6月6日は、ホタルとなって帰って来たことで有名な 新潟県出身 第104振武隊 宮川三郎少尉(軍曹から昇任)のご命日です。
宮川少尉は、知覧に近い「万世飛行場」から一度は特攻出撃したものの機体の調子が悪く帰還した経緯があり、生き残ったことを汚名と感じていました。
宮川少尉は、知覧に来てから富屋食堂で奇遇にも同郷の親友である松崎少尉に出会います。その出撃を見送ることになり、特攻の決意を益々強くした宮川少尉にもついに再出撃の命が下ります。出撃前夜は宮川少尉の20歳の誕生日でした。富屋食堂を訪れた宮川少尉に鳥濱トメは心づくしの手料理を振る舞って出撃のはなむけとしました。宮川少尉はトメに「おばちゃん、俺、心残りのことはなんにもないけど、死んだらまた、おばちゃんのところへ帰ってきたい。そうだ、ホタルだ、俺、このホタルになって帰ってくるよ。俺が帰ってきたら、みんなで<同期の桜>を歌ってくれよ。」と言い残して富屋食堂を後にしました。
翌日、万世飛行場からの出撃で共に生き残っていた同僚の滝本伍長と出撃します。視界不良のため滝本伍長が引き返そうと合図を送るなか、宮川少尉は「お前だけ帰れ」と言ってそのまま飛んで行ったそうです。
その夜、宮川少尉が告げた時間通りに富屋食堂に一匹の大きな蛍が入ってきました。トメの娘たちが「お母さーん、宮川さんよ、宮川さんが帰ってきたわよ!」叫び声をあげ、気がつくと店にいた兵隊たち、滝本伍長、そしてトメと娘たちは「同期の桜」を歌い始めていました。
鳥濱トメが89歳で大往生された通夜の夜、富屋食堂で横たわっているトメの部屋を1匹のホタルがスーッと横切ったそうです。4月下旬の季節外れのホタルは宮川少尉がトメを迎えに来られたのかも知れません。
ホタルとなって帰って来た実話に人の魂が悠久の中で生き続けているように思えます。少なくともこの実話を語り継いでいくことで悠久の時を超えていくことができます。より良い世界を紡ぐためにも語り継いで行きましょう。
なお、滝本伍長は、戦後復員して宮川少尉の実家を訪ねてありし日の姿をお伝えし、3年後に自らの命を絶たれたそうです。生き残られた方々もその後大変なご苦労をされて現在の日本があることを忘れてはなりません。
ホタルとなって帰って来た際の詳細は赤羽顧問の記事をご覧下さい。
https://x.com/tiran_tokkotai/status/1902101560156680603
6月6日は、富山県出身 第165振武隊 枝 幹二大尉(少尉から昇任)のご命日です。
詳細は赤羽顧問の記事をご参照下さい。
6月3日は、愛知県豊橋市出身 第48振武隊 中島豊蔵少尉(軍曹から少尉に昇任) のご命日です。
中島少尉は、航空総攻撃に加わるために知覧に再来し、富屋食堂の前を通りかかった時にトメを見かけ、懐かしさのあまり走行中のトラックから飛び降りて左腕にケガを負ってしまいました。そのケガで軍の風呂に入れず梅雨時で汗臭かったため、トメは富屋食堂の風呂を沸かして入れてあげたそうです。トメが中島少尉の背中を流しながら交わした会話には涙があふれてしまいます。結局、不自由な左腕を自転車のチューブで無理やり操縦桿に縛りつけて出撃し散華されました。20歳でした。
交わされた会話等は赤羽顧問のsnsをご覧下さい。
5月28日は第45振武隊隊長 茨城県出身 29歳 藤井一少佐(中尉から昇任)のご命日です。
奥様が2人の小さな女の子を連れて入水自殺されたことでご存知の方も多いと思います。鳥濱トメは、年長の物静かな人という印象を抱いていましたが、戦後にこの事情を知って泣き崩れたそうです。
藤井少佐は、熊谷陸軍飛行学校において中隊長として少年飛行兵の教育を行なっていました。特攻作戦が開始され教え子が次々と散華する中で、自身も繰り返し特攻を志願したものの、歩兵科機関銃隊所属時に支那戦線で迫撃砲の破片を左手に負ったためパイロットにはなっておらず、年齢が30歳に近く妻子がある将校は特攻の対象とは成りえず、「自分の立場で責務を果たせ」という軍の判断でした。
奥様は、軍に却下されてもなお特攻を志願し続ける夫を2人の幼子の母として説得しましたが、その決意が固いことを知り悲壮な決断をしました。
1944年12月15日の朝、晴れ着を着せた次女(1歳)をおんぶし、長女(3歳)の手と自分の手をひもで結んだ3人の痛ましい遺体が近くを流れる荒川で発見されました。知らせを受けた藤井少佐は、真冬の凍てつくような強風の中でうめき声をあげ、涙を隠すように三人の前にうずくまって優しく肌についていた砂を手で払いました。遺書には「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」と書かれていました。
藤井少佐は、亡くなった娘達に決して読まれることのない手紙を書きました。「冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。それまで泣かずに待っていてください。千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。ではしばらく左様なら。父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴」
藤井少佐は、血書嘆願による特攻志願を行い、今度は軍に受理されました。藤井少佐は、第45振武隊の隊長として二式双発襲撃機に乗り込み、1945年5月28日に知覧飛行場から出撃して散華されました。悠久の時の中で奥様と寄り添い2人の娘さんを抱かれていることでしょう。
特攻隊員だけでなく家族もまた尊い決断をされて現在の日本があります。その思いをくみとって親族を大切にし他人をいたわり自分の生を全うしましょう。先人が望んだ世界に誇れる日本となりますように。
(なお、この事実は映画化されています。)