知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会

当会は、特攻隊の偉業を顕彰し鳥濱トメの想いを引き継いで、正しい歴史認識を広めるための活動をしています。

〒154-0001 東京都世田谷区池尻2-37-2-202

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ニュース

靖國神社「みたままつり」

靖國神社 において「みたままつり」7月13日より 16日まで開催されました。
当会の提灯3灯と、理事長で映画監督の 柿崎裕治 の提灯ならびに揮毫が境内に掲揚されており、『 帰って来た蛍』もございます。
また、舞台『帰って来た蛍』や映画『さつまおごじょ』で鳥濱トメ役の伊藤つかささん、同作で鳥濱(赤羽)礼子役の竹島由夏さん、『帰って来た蛍』初演で宮川三郎少尉を演じた出合正幸さん、『帰って来た蛍』でなでしこ隊役や鳥濱美阿子役でも出演された島村明日果さん、『帰って来た蛍』や『さつまおごじょ』にも出演された榎木薗郁也さんの提灯もあります。
当会顧問でトメの孫、薩摩おごじょ新宿店店主 赤羽潤 さん、同じく顧問でトメのひ孫、ホタル館富屋食堂の館長 鳥濱拳大 さんの提灯も掲揚されました。
境内には、柿崎監督のほかにも伊藤つかささん、竹島由夏さんの揮毫も掲揚され九段の夜を彩りました。
事務局
     

【鳥濱トメ孫、鳥濱明久 御命日】

本日、7月5日は鳥濱トメの長女・鳥濱美阿子の子息、鳥濱明久の御命日となります。
鳥濱明久は幼少の頃より祖母であるトメとともに観音堂に通い、トメから特攻隊の語り部を聴き続けて育ちました。
足腰の悪くなったトメの晩年も、観音堂への参拝に毎日付き添い、母の美阿子のサポートもしながら本当によく尽くされておられました。
ホタル館富屋食堂館長、知覧茶屋の店主としても長い間勤め上げてこられ、当会が設立当初の平成25年から赤羽顧問とともに顧問を勤められておられました。
日本全国の小中学生から青年会議所、企業研修などありとあらゆる方々、約80万人超に向けて「鳥濱トメと特攻隊」の真実を伝え継いでおられました。
しかしまだ六十歳という若さで鬼籍に入られました。
我々は鳥濱トメの想いを後世に繋いだ鳥濱明久の功績を讃えながら、その想いも大切にしたいと存じます。
本日は鳥濱明久に想いを馳せて、お手を合わせていただきましたらと存じます。
合掌

お知らせ 令和5年6月8日付 南日本新聞掲載

【お知らせ】
令和5年6月8日付 南日本新聞「南風録」に、当会SNSでもご紹介した宮川三郎少尉の秘話と故鳥濱明久当会顧問ならびにご子息の鳥濱拳大当会顧問、ホタル館について掲載されました。
どうぞご覧ください。
事務局

【宮川三郎少尉御命日】

宮川 三郎 陸軍少尉  享年二十
昭和元年六月五日生 新潟県小千谷市出身
昭和二十年六月六日 陸軍特別攻撃隊第一〇四振武隊
戦死後 二階級特進 少尉任官
当会で共催させていただいている、カートエンターテイメント舞台『帰って来た蛍』や、数々の映画や著書などでも紹介され非常に有名です。
 大東亜戦争末期、敗戦の色濃くなった日本軍が取った「と号作戦」いわゆる「特攻」。10代~20代の若い隊員たちが航空機に250キロ爆弾を抱え、連合国の艦船に突入する百死零生の攻撃方法です。宮川少尉もまた、特攻隊員でした。
 宮川三郎少尉は昭和二十年五月半ばころ、富屋食堂に姿を現しました。雪国「新潟」小千谷の生まれでした。
 知覧に近い「万世飛行場」から、一度は特攻出撃したものの、機体の調子が悪く帰還した経緯があり、生き残りの烙印を押され、不忠の汚名を着せられていました・・・。
 しかし宮川少尉にもついに再出撃の命が下ります。出撃前夜、富屋食堂を訪れた宮川少尉。その日は宮川少尉にとって満二十歳の誕生日でもあったのです。鳥濱トメは心づくしの手料理を振る舞い、宮川少尉の誕生祝いと出撃のはなむけとしました。
宮川少尉はその夜、トメにこんなことを伝えていました。
「おばちゃん、俺、心残りのことはなんにもないけど、死んだらまた、おばちゃんのところへ帰ってきたい。そうだ、蛍だ、俺、この蛍になって帰ってくるよ。俺が帰ってきたら、みんなで<同期の桜>を歌ってくれよ。」
宮川少尉出撃の日の夜のことです。
ラジオが9時を告げ、ニュースが始まってすぐのことでした。わずかに開いた表戸の隙間から一匹の大きな蛍が入ってきたのです。二人の娘たちは、ほぼ同時にその光景に気がつき叫び声をあげました。
「お母さーん、宮川さんよ、宮川さんが帰ってきたわよ!」
トメは息を呑みました。
そこには、紛れもなく帰ってきた「宮川少尉」がいたのです。気がつくと、店にいた兵隊たち、滝本伍長、そしてトメと娘たちは「同期の桜」を歌い始めていました。
貴様とおれとは
同期の桜
おなじ航空隊の
庭に咲く
咲いた花なら
散るのは覚悟
みごと散りましょ
国のため
貴様とおれとは
同期の桜
離れ離れに
散らうとも
花の都の
靖国神社
春の小枝で
咲いて逢ふよ
※参考:赤羽礼子 石井宏 著書「ホタル帰る」
宮川少尉はトメたちとの「約束」を果たしました。そして、現代を生きる私たちに日本の未来を託し、今も見守ってくれていると思います。
本日は宮川三郎少尉の出撃した日、御命日です。
合掌
 

『鳥濱トメと特攻隊』講演会

5月21日、鴨川市文化体育館1階で鴨川青年会議所主催、鴨川市教育委員会後援にて開催されました講演会においでいただきました皆様、誠に有難うございました。
今回は鴨川青年会議所創立55周年記念事業「繋ぐ 特攻隊員に託された日本の未来」という事でお招き頂きました。
講演後に「今の私達が居るのは特攻隊のあの方々のお陰です」と声を掛けてくださいました方もおり、皆さんにトメの想いが伝わったなぁと感じました。
全国、講演に参りますので是非お問合せください。
知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会ホームページ「お問合せ」からもお申込みも可能です。

南日本新聞掲載のお知らせ

南九州地方を中心に販売されている、南日本新聞の5月5日朝刊地域総合版(P.11)に、鳥濱トメ顕彰会ならびに当会顧問であり「ホタル館富屋食堂」館長の 鳥濱拳大 さんに関連するニュースが掲載されましたのでお知らせいたします。
【内容】
大東亜戦争中、鳥濱トメの営む富屋食堂にも訪れ鳥濱家と交流のあった特攻隊員 勝又勝雄大尉(戦死後、二階級特進し大尉)の肖像画をお持ちの方から当会に寄贈したいとのお申し出に対し、柿﨑裕治 理事長の発案で当会を介して「ホタル館富屋食堂」へ寄贈することになり、コロナ禍でなかなか寄贈することができなかったのですが、今年、「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」が4年ぶりに開催される機会に合わせて寄贈が実現したニュースを取り上げています。
寄贈の際は、トメの孫でホタル館特任館長も務める 赤羽潤 当会顧問も同席しました。
ぜひ、皆様ご一読ください。
※Webニュースでも取り上げられました。
『残りの人生はおばさんにあげる…出撃前の特攻隊員を描いた肖像画、鳥浜トメさんゆかりの「富屋食堂」に届く 知覧 (南日本新聞) 』
https://news.line.me/detail/oa-373news/7lk3hr7uoh94?mediadetail=1&utm_source=line&utm_medium=share&utm_campaign=none&fbclid=IwAR1twjP9UWzcWiB3yBnGlbxny9XFz98l08S4zXjT0dxEvWYZ-Zuq7YyXXMg

知覧特攻基地戦没者慰霊祭を前に

鳥濱トメ、並びに令和3年7月に鬼籍に入られたトメの孫•鳥濱明久の墓前に手を合わせて参りました。
コロナ禍でなかなか知覧に訪れる事が出来ずにおりましたが、4年振りの慰霊祭の開催に合わせて久しぶりに知覧に来ることが叶いました。
知覧では、トメの曾孫の鳥濱拳大を訪ねてご挨拶したあと様々な史跡•戦跡も巡りましたので少しずつご紹介してまいります。(※この投稿を作成中に、ホタル館を訪ねた理由がわかるニュースがございましたので、明日以降順次公開してまいります。)
◉知覧の特攻観音堂側に、鳥濱トメが寄贈した灯籠や手水鉢
トメは戦後、米軍の目を避けて飛行場跡地に棒杭を立て、娘の美阿子、礼子と共に毎日欠かさず特攻隊員の墓標代わりにお参りしておりました。
「お国の為に命を賭して戦った特攻隊員のために、お国が観音堂を建てて彼等をお祀りしなければならない」と言い続けて、公費での建立のためにトメ自らも奔走し昭和30年にようやくその願いは実現しました。
観音堂が建立された際に、灯籠や手水鉢を寄贈しています。
この時から現在に至るまで、知覧の町中に灯篭が建立されるきっかけとなっていきました。今では陸軍特攻戦没者数といわれる1036柱を超える灯篭が知覧でみかけることができます。(一見、風景写真に見える青空の広がる写真には灯篭が写っています)
のちほど「ホタル館富屋食堂」のニュース記事についてご報告いたします。

【知覧特攻基地戦没者慰霊祭に参列します】

コロナ禍で、中止や参列者の限定をしていた「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」ですが、本年はご遺族や関係者のみならず参列できるとのことでご案内がございました。

本年は理事長をはじめとして、舞台「帰って来た蛍」出演俳優、赤羽顧問、事務局、会員も多数参列いたします。

写真は知覧から出撃した特攻隊員が最期に見た日本の景色。 薩摩富士とも呼ばれる開聞岳です。

事務局

【鳥濱トメ御命日】

平成4年4月22日、鳥濱トメは特攻隊員たちの待つ場所へと旅立ちました。多くの特攻隊員たちに「おばちゃん、俺の残りの人生あげるから、長生きしてな」と、声をかけられたトメは、89歳の大往生でありました。
 鳥濱トメは、昭和4年から鹿児島県川辺郡知覧町(現:南九州市知覧町)で「富屋食堂」を営み、女将をしており、大東亜戦争が開戦した翌年に「富屋食堂」は陸軍指定食堂となりました。ちょうどトメが40歳のときでした。
 戦争末期に知覧飛行場は特別攻撃隊の基地となり、全国各地から若い特攻隊員たちが集めれ、出撃していきました。知覧から出撃した陸軍特攻隊員は436名におよび、その特攻隊員の方々の出撃までの最期のわずかなひと時を、トメは深い愛情で包み込み、彼らから”お母さん”と慕われるようになっていました。
 そうしてトメはいつのまにか「特攻の母」だとか「特攻おばさん」などと呼ばれるようになっていました。
 戦争中は「軍神」などと世間から崇められた特攻隊でしたが、敗戦後、少なくない数の国民から、手のひらを返されたように「軍国主義の象徴」などと蔑まれ、特攻から生き残った方々でさえ「特攻崩れ」と罵倒されました。
 戦後すぐに、トメは飛行場跡地に棒杭を立てて特攻隊員の墓標代わりとし、欠かさず毎日参拝を続けていました。トメは、ただひたすらに、たとえ世間が何と言おうともその信念を曲げることなく「特攻隊のあの子たちの為に観音堂を建てなくてはならない。お国のために散らしたあの子らの命は、お国が弔わなければならないんだよ。」と言い続け、奔走しました。
 その願いが叶い、飛行場跡地に観音堂が建立されたのは昭和30年秋のことでした。
 観音堂が建立され、最初の慰霊祭が開催されたのちも観音堂に参拝に来る人たちは稀で、トメだけがお参りしているのが日常でした。
 それでもトメは近所の子供達を観音堂へ連れて行き、掃除をさせてから手を合わせ、特攻隊員のことを語りながら果物やおやつなどを食べさせました。子供たちだけでなくご遺族以外でも観音堂に慣れ親しむことと参拝が「当たり前」になっていくように、長い時間をかけて尽力したのです。
 それが「特攻隊慰霊顕彰の町 知覧」の礎となり、現在へと続いているのです。
 昭和30年に建立された観音堂も現在は三代目となり、今も大切に守られております。毎年5月3日には、「知覧基地特攻戦没者慰霊祭」が観音堂の御宝前で催行され、新型コロナの影響で参列できなかった年が続いておりましたが、本年は久しぶりに一般の方々も参列ができることになりました。
 当会は鳥濱トメが遺した、特攻隊員への慰霊顕彰の気持ちを受け継ぎ、鳥濱トメの偉業を一人でも多くの方に伝えていきたいと思います。顕彰会もこの4月で設立10周年を迎えました。これもひとえにご支援ご協力いただいている皆様のおかげです。
 鳥濱トメの御命日に際し、お時間がございましたら皆様にもお手を合わせていただけましたら幸甚です。
合掌

【鳥濱美阿子 御命日】

本日は鳥濱トメの長女、鳥濱美阿子の御命日です。
戦時中、母トメと妹の礼子とともに「富屋食堂」に通う特攻隊員の方々に親身になって接しました。
昭和55年2月4日、五十代前半の若さで鬼籍に入られました。
写真は昭和19年5月31日柳谷教官と共に、右端が美阿子、中央がトメ、左手前が礼子です。
皆様にも、お手を合わせていただけましたらと存じます
合掌
事務局