知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会

当会は、特攻隊の偉業を顕彰し鳥濱トメの想いを引き継いで、正しい歴史認識を広めるための活動をしています。

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ニュース

『万世特攻慰霊碑第54回慰霊祭』供花

令和7年4月13日に万世特攻慰霊碑第54回慰霊祭が執り行われ、知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会からも供花を捧げました。その写真が届きましたのでご紹介します。

万世飛行場は、吹上浜に昭和18年夏から19年末にかけて建設された陸軍最後の特攻基地であり、終戦間近のわずか4ヶ月しか使われなかったため『幻の特攻基地』と言われています。その飛行場跡地に万世特攻平和祈念館が建てられ、館内には吹上浜沖から引き揚げられた「零式水上偵察機」や死を間近に控えた隊員たちが肉親・愛する人達へ宛てた最期のメッセージ、“至純の心”を綴った「血書」、遺品、遺影などが多数展示されています。

敷地内に建碑された万世特攻慰霊碑「よろずよに」の前にて毎年4月の第2日曜日に慰霊祭が執り行われており、当会からも毎年供花を捧げております。

この万世特攻基地から17歳少年飛行兵を含め201名の特攻隊員が祖国を護るために沖縄に出撃していきました。特に第72振武隊の子犬を抱いた写真が有名となっていますが、子犬を抱いている荒木少尉と右上の目線を逸らして写っている高橋少尉は最年少の17歳でした。写真は出撃予定のわずか2時間前に撮影されたと伝わっています。

当時は万世基地の近くに飛龍荘という隊員向けの宿舎があり、親身に隊員の面倒を見られた山下夫妻がおられました。宿泊した隊員たちは遺書や親族等に宛てた手紙を託すなど、山下夫妻と親しく交流を重ねた記録がありますので鳥濱トメと特攻隊員のような関係があったものと思われます。飛龍荘は諸事情により戦後20年以上経って売却され、平成6年に老朽化が進んだため、元隊員たち等の惜しむ声も多かったのですが解体されました。

今回の慰霊祭には約320名のご参列を頂いたそうです。皆様も機会がございましたら慰霊に訪れて頂ければ有難く存じます。

  

 

鳥濱トメ御命日

本日4月22日は鳥濱トメの御命日となります。

鳥濱トメは、昭和4年から鹿児島県川辺郡知覧町(現:南九州市知覧町)で「富屋食堂」を営んでおり、トメが40歳の時、大東亜戦争開戦翌年の昭和17年に陸軍指定食堂となりました。

知覧飛行場からの特攻が始まったのは、その3年後であり、知覧で学び各地の航空基地へ赴任していた懐かしい顔が続々と知覧へ帰って来ました。トメは明日の無い彼らのために出来る限りのことをしてあげようと、自分達が住んでいた食堂の2階を彼らがゆっくりくつろげる場所として提供しました。また、お金をもらう以上にもてなし、自分の着物や家財道具を売ってまで食材を調達して彼らをねぎらいました。

ある時、規定営業時間以降も特攻隊員をもてなしていたことを憲兵に見つかり規律違反として連行されました。トメが「あの子たちは2、3日したら体当たりするのだから、それくらいしてもいいじゃありませんか!」と答えたことから憲兵に殴る蹴るの体罰を加えられ、顔が腫れ上がってしまいました。トメは自分の命を張ってまで深い愛情で彼らを包み込み、「お母さん」と慕われるようになりました。

沖縄へ比較的近かったこともあり、知覧基地から出撃した特攻隊員は439名にのぼりました。戦争中は「軍神」などと崇められた特攻隊でしたが、敗戦後は、少なくはない国民から手のひらを返されたように非難されました。

トメは、世間が何と言おうとも信念を曲げることなく、戦後すぐに飛行場跡地に棒杭を立てて墓標代わりとし、毎日欠かさず参拝を続けていました。「特攻隊のあの子たちの為に観音堂を建てなくてはならない。お国のために散らしたあの子らの命は、お国が弔わなければならないんだよ。」と言い続け、観音堂建立のために奔走しました。 その願いが叶い、飛行場跡地に観音堂が建立されたのは敗戦から10年後の昭和30年秋のことでした。

最初の慰霊祭が開催された後も観音堂へ参拝に来る人は少なく、トメは近所の子供達を観音堂へ連れて行き、掃除をさせてから手を合わせ、特攻隊員のことを語りながら果物やおやつなどを食べさせました。観音堂に参拝することが「当たり前」になっていくように長い時間をかけて尽くしたのです。それが「特攻隊慰霊顕彰の町 知覧」の礎となり、現在へと続いています。

そうして、鳥濱トメは、平成4年4月22日、彼らの待つ天国へと旅立って行きました。特攻隊員たちから「俺の残りの人生あげるから長生きしてな」と半生を託され、89歳10か月の大往生でした。

「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」は毎年5月3日に観音堂前で催行されており、昨年は約700名の参列がありました。昨年8月にパリオリンピックの卓球日本代表 早田ひなた選手が帰国後にやりたいことについて「鹿児島の特攻資料館に行って生きていること卓球ができることが当たり前ではないということを感じたい」と話してくれたことから全国的に意識が高まり、今年は参列者の増加が予想されます。当会も例年通り参列し、鳥濱トメが遺した特攻隊員への慰霊顕彰の気持ちを受け継ぎ、その志を一人でも多くの方に伝えていきたいと思います。

鳥濱トメの御命日に際し、皆様にもお手を合わせていただけましたら幸甚です。

 

『第46回特攻隊全戦没者慰霊祭』参列

3月29日靖国神社において行われました「第46回特攻隊全戦没者慰霊祭」に非営利活動法人 知覧特攻の母鳥濱トメ顕彰会として参列致しました。雨の中、真冬のような気温となりましたが、桜はこの日に間に合うようにとばかりに短期間で満開を迎えました。参列者一同が同期の桜を斉唱した際には嗚咽も聞こえ、桜と涙雨という風情がご英霊に寄り添っているかのように感じられました。戦時中に生きたくても生きられず日本・家族のために身を挺された方々のお蔭で今日の日本があり、日本人として感謝の心を永久に忘れることなく生を全うして頂きたいと願っております。

令和7年 新年のご挨拶

謹賀新年
旧年中は格別のご厚情を賜り誠に有難う御座いました
本年も鳥濱トメと特攻隊の真実を伝えて参りますので
変わらぬご理解ご支援のほど宜しくお願い申し上げます
新年にあたり皆様のご健勝とご多幸を心よりお祈り申し上げます
令和七年 元旦
事務局

【鳥濱トメ次女・赤羽礼子御命日】

本日、10月16日は鳥濱トメの次女、赤羽(旧姓鳥濱)礼子の御命日となります。
礼子は先の大戦末期、永崎笙子さんらとともに知覧高等女学校の女学生でありながら、知覧で特攻隊員の身の回りのお世話をされた「なでしこ隊」のお一人でした。
モノクロの写真は、なでしこ隊の皆さんが昭和20年4月12日に知覧飛行場から特攻隊として出撃する穴澤利夫大尉(特攻戦死後二階級特進)を見送る様子を撮影したもので、1965年発行の「毎日グラフ」別冊に掲載されました。
 戦後20有余年経って、礼子が東京に開店した「薩摩おごじょ 新宿店」は、特攻出撃から生還された方々や戦友、ご遺族らの集う場所として大変賑わいました。
 生前、礼子は「薩摩おごじょ」を営む傍ら、週末ごとに知覧に帰り特攻隊員の出撃を見送った戦争中の語り部するというハードな生活を長年していました。
礼子が亡くなってからは、ご子息の赤羽潤氏が二代目としてお店を受け継ぎ、奥様と共に切り盛りされています。また、礼子と同じように慰霊活動や語り部として講演会を実施するなど全国を飛び回り、精力的に活躍しています。
 親子三代にわたり受け継がれる感動の物語は、カートエンターテイメント制作映画「さつまおごじょ」(オムニバス長編映画『大河巡る~生まれ変わっても忘れない~』に収録)で観ることができます。
礼子は講演会で「もし皆さんにつらいことがあっても、特攻隊として散って往かれたあの方たちに比べれば、それほどつらいということは無いと思います。私たちには”明日”が来るのですから。ですから皆さんもつらいことがありましたら、飛んで行かれたあの方たちのことを思い出して頑張っていただきたい。そして、知覧にもぜひ足を運んでほしいと願っています」と話していました。
私たちはこの言葉を大切にしてまいりたいと思います。
本日は礼子の「想い」に触れ、お手を合わせていただけましたらと存じます。
合掌

【鳥濱トメ孫・赤羽潤顧問 『致知』10月号記事掲載】

致知出版社刊 月刊『致知』10月号94ページに「祖母・トメ、母・礼子の願いに生きる」と題して

赤羽顧問が取材を受けた際の記事が掲載されています。

今後、WEBでの掲載も予定されていますので、改めて告知いたします。

https://www.chichi.co.jp/info/chichi/backnumber/2024/202410/

事務局

サンデーステーションにて放送されました

8/11(日)のサンデーステーションにて、鳥濱トメと特攻隊について放送されました。 また、ホタル館富屋食堂の館長で鳥濱トメのひ孫鳥濱拳大さんがインタビューされ出演しております。 公式X/YouTubeにて動画が公開されていますので是非、ご覧ください。 事務局

【「日本一のお母さん」#特攻隊員 の“遺書” 後世にどう残す?】

陸軍最大の特攻隊基地があった街、鹿児島・旧知覧町の「知覧特攻平和会館」では、特攻隊の遺書を後世に残すため“レプリカ”を作成 →特殊技術で、紙の質感から傷や汚れまで、遺書の現物を忠実に再現し展示

▼佐藤新平 少尉(23)の遺書 「お母さん江。思えば幼いころから随分と心配ばかしおかけしましたね、腕白(わんぱく)をしたり、又、何時(いつ)も不平ばかし言ったり、眼を閉じると子供のころのことが不思議なくらい、ありありと頭に浮かんで参ります」 「家を出発するとき、台所でお母さんが涙を流されたのが、東京にいる間中、頭に焼き付いて、あの頃どんなに帰りたかった事かしれませんでした。ゆっくりお母さんに親孝行をする機会のなかったことだけ残念です」 「軍隊に入ってお母さんにお会いしたのは三度ですね。態々(わざわざ)長い旅をリュックサックを背負って会いに来て下さったお母さんを見、何か言うと涙が出そうで、遂(つい)、わざわざ来なくても良かったのに等と、口では反対の事をいってしまったりして、申し訳ありませんでした」 「日本一のお母さんをもった新平は常に幸福でした。日本一の幸福者、新平、最後の親孝行に、いつもの笑顔で元気で出発いたします」 →1945年4月16日出撃、23歳で戦死。遺書を受け取った母親は泣き崩れる

▼穴澤利夫 大尉(23)が婚約者に残した遺書 →軍人ということでお互いの両親から結婚を反対されるも、2人の意思は固く、なんとか婚約を許される。しかしその後「出撃命令」が 「二人で力を合わせて努めて来たが、終(つい)に実を結ばずに終わった。婚約してあった男性として、散って行く男子として、女性であるあなたに少し言って征き度い」 『あなたの幸せを願う以外に何物もない。徒(いたずら)に過去の小義(しょうぎ)に拘る勿れ。あなたは過去に生きるのではない。勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと。穴澤は現実の世界には、もう存在しない』 「今更何を言ふのかと自分でも考へるが、ちょっぴり欲を言って見たい。読み度い本 『万葉』『句集』。観たい画 ラファエル『聖母子像』」 「智恵子、会ひ度い、話し度い、無性に。今後は明るく朗らかに。自分も負けずに朗らかに笑って征く」 →1945年4月12日、婚約者の智恵子さんからもらったマフラーを巻いて出撃し、23歳で戦死。智恵子さんは穴澤さんの煙草の吸い殻を生涯持ち続ける

▼特攻作戦で亡くなった隊員は6371人 軍指定の食堂の女将「特攻の母」と呼ばれた鳥濱トメさんは、特攻隊員たちをわが子のように可愛がり、時には検閲を恐れた特攻隊員から遺書を預かり、家族や恋人に届ける →食堂が復元されており、館内には特攻隊員の遺書などを展示 トメさんのひ孫 ホタル館 富屋食堂 鳥濱拳大さん 「80年も経つと手紙とか黄色くなってしまう。少しづつ(建物が)雨漏りだったり、そういった維持には結構お金がかかる」 →一時は閉館を考えるも、寄付を集めるなどして存続の道を模索 ホタル館 富屋食堂 鳥濱拳大さん 「(特攻隊員が)手紙にこめた思い、彼がどういった思いでこれを書いたのかというのを残していきたいと私は思っている」 鳥濱トメさんの生前の言葉 「(特攻隊員が)自分なんかの年を全部あげるから、おばさん長生きしてくださいねと。時には蛍になって帰ってくるからという人もいましたよ。敵機が何機来ても、おばさんのうちだけは守ってあげるからと。疎開しなくてもいいですよと。偉かったですよ」 「一つしかない命を投げ捨てて、散って行った若者たちの事、忘れてはならない」

https://news.yahoo.co.jp/articles/e96b4dc4aacd32d64fd350d143d8cecdece3c413

 

令和6年 靖國神社みたままつり

本年も皆様のご支援により、鳥濱トメ顕彰会として大型提灯を掲揚することができました。
顕彰会のほかにも、鳥濱トメ孫の赤羽潤さん、鳥濱トメひ孫の鳥濱拳大さん、共催舞台『帰って来た蛍』や出演者の提灯も掲揚されています。
また、境内には当会理事長の柿崎裕治監督や、鳥濱トメ役を務める伊藤つかささん、次女礼子役の竹島由夏さん、長女美阿子役のさとう珠緒さん、宮川三郎の姉役半井小絵さん、特別プロデューサーの井上和彦さんなど多くの著名人や財界人、実業家など靖國神社から選ばれた方々の『揮毫』も掲揚されており、見応え充分です。
本日より、16日まで開催されておりますので是非足をお運びください。
事務局

【鳥濱トメ孫、鳥濱明久 御命日】

本日、7月5日は鳥濱トメの長女・鳥濱美阿子の子息、鳥濱明久の御命日となります。
鳥濱明久は幼少の頃より祖母であるトメとともに観音堂に通い、トメから特攻隊の語り部を聴き続けて育ちました。
足腰の悪くなったトメの晩年も、観音堂への参拝に毎日付き添い、母の美阿子のサポートもしながら本当によく尽くされておられました。
ホタル館富屋食堂館長、知覧茶屋の店主としても長い間勤め上げてこられ、当会が設立当初の平成25年から赤羽顧問とともに顧問を勤められておられました。
日本全国の小中学生から青年会議所、企業研修などありとあらゆる方々、約80万人超に向けて「鳥濱トメと特攻隊」の真実を伝え継いでおられました。
しかしまだ六十歳という若さで鬼籍に入られました。
我々は鳥濱トメの想いを後世に繋いだ鳥濱明久の功績を讃えながら、その想いも大切にしたいと存じます。
現在は明久さんのご子息である、拳大(けんた)さんがその後を継いで、ホタル館富屋食堂館長と知覧茶屋の店主を務めながら語り部をされています。
本日は鳥濱明久に想いを馳せて、お手を合わせていただきましたらと存じます。
合掌

光山文博(卓 庚鉉)少尉 御命日

鳥濱トメと特攻隊
光山文博(卓 庚鉉)少尉
昭和18年、光山少尉は京都薬学専門学校(現・京都薬科大)から学徒出陣し、太刀洗陸軍飛行学校知覧分教所時代の知覧飛行場に入校。
特別操縦見習士官第一期生として、教育隊で操縦教育を受けていました。
そのころから、すでに陸軍指定食堂となっていた富屋食堂に頻繁に訪れて鳥濱家の面々と交流を図っていました。そのころから彼は、「自分は朝鮮人です」と口にしていたそうです。
そんな光山少尉を、トメさんは何かと気にかけ面倒を見ながら、一緒に食事したりまるで自分の息子のように可愛がっていたそうです。そんな中、彼は異動していきました。
昭和20年になって、光山少尉は第五十一振武隊として知覧に戻ってきました。この時期に戻って来た、ということは特攻隊員になったんだ、とトメさんも気が付きます。残り少ない時間を大切に過ごしていきます。
そして、出撃前夜の5月10日の夜、食堂に一人で来ていた光山少尉をトメさんは自分たち家族の部屋に呼びました。長女の美阿子さんと次女の礼子さんと4人で過ごしていました。光山少尉は、いつもは軍歌などを戦友らと歌ったりしませんが 「今夜は最後だから、故郷の歌を歌うよ。おばちゃん。」と言い、歌い始めたそうです。光山少尉は帽子深くかぶって顔を隠したが、肩がふるえているのを鳥濱家の皆は気が付いていました。
トメさんや娘たちもたまらなくなって泣きながら一緒に「アリラン」を歌いました。光山少尉は歌い終わると、朝鮮の布地で織った黄色い縞の入った財布に、筆で「贈 為鳥浜とめ殿 光山少尉」と書いて渡しました。
「おばさん、今日まで大変お世話になりました。お世話になった御礼と言ってもこんなものしかありませんが、形見と思い、受け取ってください。」と言いました。
光山少尉はその1年前に母親を失い、戦況の悪化した3月には歳老いた父親と妹も朝鮮に送り返していました。
昭和20年5月11日、光山少尉は、遺書も書かずに出撃されました。
事務局